【君の膵臓をたべたい】通り魔になぜ襲われる設定か?その意味は?

この記事では、映画『君の膵臓をたべたい』における通り魔に襲われる設定がなぜなのか、その意味はなんなのかについて解説していきます。

映画『君の膵臓をたべたい』では、余命僅かな山内桜良と「僕」の関係を描く作品です。

ですが、余命僅かな山内桜良はその余命を全うすることなく、通り魔に刺されてなくなってしまいます。

山内桜良の死因はなぜ病死ではなく、通り魔による刺殺だったのでしょうか。

その意味はなんだったのか、詳しく見ていくことにします。

『君の膵臓をたべたい』について

まず初めに、映画『君の膵臓をたべたい』についておさらい的に解説していきます。

映画『君の膵臓をたべたい』は小説家・住野よるさんのデビュー作を原作としており、双葉社から出版される前は「小説家になろう」に投稿されていました。

「小説家になろう」に投稿されていたのがライトノベル作家の伊藤きくさんの目に留まり、双葉社に紹介されて出版に至りました。

その後は「本屋大賞」第二位や「ダ・ヴィンチBOOK OF THE YEAR」二位になるなど高い評価を得ています。

2016年にオーディオドラマ化を皮切りに、2017年に実写映画化され、2018年には2018年にはアニメ映画にもなっています。

山内桜良を襲った通り魔は元彼?

山内桜良を襲った通り魔は元彼だったのではないか、という意見があります。

ヒロインの山内桜良はクラスの人気者であり、元彼も3人いたようです。

それに対して「僕」はおとなしい性格で、恋人もおらず、それどころか友達もあまりいません。

このように全く対照的な性質の二人ですが、「僕」がひょんなことから山内桜良の秘密を知ってしまったために関係を持つことになります。

劇中では、こうした山内桜良と「僕」の関係をよく思わない人物として、山内桜良の元彼である隆弘が登場します。

彼はクラスでは人気者ですが、山内桜良への執着を捨てきれておらず、山内桜良と「僕」の関係をよく思っていませんでした。

そんなある日、隆弘と「僕」が出くわし、隆弘は「僕」を殴ってしまいます。

怒りの収まらない隆弘でしたが、その光景を山内桜良に目撃され、山内桜良は「二度と近づかないで」と隆弘を拒絶します。

このようなエピソードがあったので、嫉妬深い隆弘が山内桜良を殺したのではないか…という推測が出たわけですね。

ですが、結論から言ってしまえばこの説は間違いです。

通り魔の存在については小説でも映画でも、冒頭部分で触れられています。

通り魔が隆弘なのであればそれが分かる描写を行うでしょうし、「隆弘=通り魔説」は正直強引と言わざるを得ません。

また、山内桜良が隆弘を拒絶する場面の前に、山内桜良と「僕」の間に気まずい空気が流れていたことにも着目すべきです。

山内桜良が隆弘を拒絶したことを通して二人は仲直りしますから、隆弘はこの仲直りのためのマクガフィンとして利用されたと見るべきでしょう。

『君の膵臓をたべたい』通り魔に襲われるのはなぜ?その意味とは

結局、『君の膵臓をたべたい』で山内桜良が通り魔に襲われるのはなぜなのか、その意味とは一体なんなのでしょうか。

このことには、作者の込めたメッセージが関係しています。

山内桜良の余命が残り僅かであることは映画の冒頭から明らかになっていたことですから、山内桜良がこのまま病気で命を落とすと思った方も多いでしょう。

しかし実際には、山内桜良は通り魔に襲われ、とうとう亡くなってしまうのです。

このことからは、「人はいつ死ぬか分からないもので、余命という期限があったとしてもそこまで生きられる保証はない」というメッセージが読み取れます。

「死」というものは突然やって来るもので、そこに伏線なんてものはないのです。

だから、今を一生懸命生きなくてはならない…ということでしょう。

余命の無い健康な人は勿論のこと、余命の言い渡された人であっても、翌日突然亡くなってしまうなんてこともあり得るわけです。

『君の膵臓をたべたい』の通り魔のシーンには、とても深い意味が込められているようですね。

まだ小説を読んだことがない方は映画と小説の違いも楽しみながら読んでみると、更にこの作品の世界観にひたれるのではないでしょうか。


いかがでしたでしょうか?

この記事では、映画『君の膵臓をたべたい』の山内桜良が通り魔に襲われるのはなぜなのかと、その意味は一体なんなのかということについて解説させていただきました。

『君の膵臓をたべたい』のあのシーンは、映画の伏線を細かく気にする人などにとっては、ちょっと気になってしまうシーンだったかもしれませんね。

私は最近『ショーシャンクの空に』を観たんですが、ああいう見事な伏線回収を見せられると、並大抵の伏線回収では満足できなくなってしまう気持ちも分かります。

ですが、『君の膵臓をたべたい』の通り魔のことをこの記事で述べたように考えてみると、人の儚さを表現した、ちょっといい感じのシーンに見えてきませんか。

最後に、小説版『君の膵臓をたべたい』の山内桜良の台詞を引用して、この記事を終わりとさせていただきます。

「誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない。誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。まだ、ここに生きてる。だから人が生きてることには意味があるんだよ。自分で選んで、君も私も、今ここで生きてるみたいに」

引用:住野よる氏『君の膵臓をたべたい』(2015年、双葉文庫)より

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